エッセイ

海を見た日

支度にだいぶ時間がかかり、結局昼を過ぎてからようやく家を出た。
いつもそうだ。服を脱いだり髪を直したりお化粧したりという簡単なことが苦手だ。
食事も風呂も掃除も洗濯も苦手だ。つくづく生活に向いていない。
なぜ山奥に釜を持つ陶芸家にならなかったのか、今からでもなれるのか、それは常に考えている。

そのまま乗っていれはつくはずの電車を降りてしまったり、
各駅に乗ってしまったりでなかなか先に進まない。
急行と準急はいったいどちらが速いのだろう。

私は海へ向かっている。
昨日バイト中に思いついた傷心一人旅だ。
ブロークンハートロンリートラベル。何でも英語で言っておけば曲のタイトルっぽくなる。
しかし直前に決めた1人旅なんてものは、ちょっとしたことですぐに決意が揺らぐ。
 
昨晩、居酒屋のバイトが終わり、いつものメンバーとテーブルを囲んでいると、
初めて会う人がやってきた。
彼は常連客さつきちゃんの職場の人で、かなり酔っていて大変面白かった。
場も盛り上がり、もうこのまま帰らずに朝まで飲んでしまおうかと思ったが、
なんとか24時過ぎに店を出た。
一緒に駅まで向かったケイちゃんとカゲさんに、今度はカラオケに誘われた。
朝までカラオケ…いいな。しかしそれも断り1人で家路につく。
数々の誘惑を乗り越えて睡眠時間を確保したのだから、明日は必ずや海へ行こう。
そう思って眠りについた。
それが午前4時。遅い。

しかし今なんとか、着実に海に近づいている。まあ急ぐことはない。
今日は誰ともしゃべらず、ただ1人で冬の海を眺めるのだ。
「オドルちゃん!」
電車の中で突然声をかけられる。バンドメンバーのパンキンちゃんだった。
都会人の1人旅はなかなかうまくいかない。知り合いが多すぎるのだ。
小さい頃の家出がうまくいかないのと同じだ。
傷心の旨を伝えると、パンキンちゃんはこないだ行った出会い系居酒屋のことを
面白おかしく話してくれた。
女子会と言われて行った店が出会い系居酒屋で、
バンドマン女子たちはそこでタダ酒をかっくらっていたらしい。
(女性は無料で飲み食いできる。)
この使い方を皆が覚えたら、コレ系の店は全て潰れてしまうだろう。
男性を紹介されない変な人数(3人とか4人とか)で行くのがオススメらしい。

パンキンちゃんは私より手前の駅で手をふって降りて行った。
なんか海がどうでもよくなってきた。

もともと自然なんか好きではないのだ。
こんな時は廃墟の方がよかった。地球上で唯一、時間の流れていない場所、それが廃墟。
たそがれるには、できれば時間も止まっていたほうがいい。
自然というのは、常にリズムを刻んでいるのでダメだ。
山に行けば小動物の息づかいや木々のざわめき、
海に行けば終わることのない波や暮れていく空が時の流れを告げる。
しかし私の中のベタ好き精神が「傷心のときは海」と囁いている。
もう海は近いし廃墟はどこにあるか分からない。海に行くしかない。

中央林間で乗り換える。
そこからの電車に乗るのは初めてな気がする。
乗ったことがあるかもしれないが、忘れてしまったので気持ちは初めてだ。
初めてのものはいつだってワクワクだ。
忘れるということは、嬉しいこともある。
何度でも新鮮な気持ちで向き合えるという。
反対に、悲しいこともある。
認知症のおじいちゃんは、おばあちゃんの死を何度も教えてもらっていた。
悲しみは、忘れてしまったら乗り越えられない。
消えることもない。
心を埋め尽くしてしまった大きな石を、時間をかけて小さな小石にしていくだけだ。

また各停に乗ってしまった。
急行に縁がない暮らしをしているので、来る電車に構わず乗ってしまうクセがついている。
まあいいか。またどこかで乗り換えよう。
知らない街並みを窓から眺めているのは楽しい。
 
不意にお腹がめちゃめちゃ空いていることに気づく。喉も乾いた。
あとどのくらいで着くのだろう。
1度降りよう、各停遅いし。本能の赴くままに行こう、一人は自由だ。
そう思って知らない駅で降りる。
といっても改札を出るわけではない。
缶コーヒーを買って、持ってきたちぎりパンをホームのベンチで少し食べるだけだ。
このパンは、1袋714キロカロリーもある。6分割されているので1ちぎり120弱。
その一ちぎりはフワフワで一瞬でなくなってしまう。恐ろしいパンだ。
いや今日はもういいだろう。私は傷心なのだから、ダイエットは明日からだ。

もっと待つかと思ったら、次の電車はすぐに来た。
そしてまたもや各停だった。そもそも急行とかあるのだろうか。
突然、電車が来た方向に進み出した。また間違えたか。
しかし車内アナウンスは私の降りたい駅名を告げていた。
スイッチバック?旅の不安を煽るのはやめて欲しい。
結局海には夕方についた。予期せず黄昏タイムだ。
ふと昨日のアツキの発言を思い出す。
バイト先の使えない21才は、「暗い」「変」「孤独」
などと言ってけなすと喜んでしまうのでなかなか難しい。
明日1人で海へ行くと言ったら
「海は夕方でしょう、たそがれるなら。ギター持ってかないんスか? 」と言われた。
あいつを落ち込ませるワードが分からない。
そうそう「黄昏」とは夕暮れの薄暗い時間帯のことを表していて、人の状態や様子を表すわけではない。だから「たそがれる」とは「黄昏時に物思いにふける」を省略した新しい言葉なのだろうと勝手に思っている。

砂浜へ続く歩道橋の上に上がると、海が目の前に広がった。
西日が眩しく空はまだ青い。
テンションは一気に上がる。波の音さいこう。
サーファー、ビーチバレー、サッカーに自転車に犬。
波間を走り抜ける少年たち。
砂浜は賑わっていた。
たそがれている場合ではない。
とりあえず波打ち際を歩く。この靴失敗だ。
思ったほど寒くなく、空も海も美しい。気持ちがいい。
ふと前方をみると江の島の灯台が見えた。
江の島のこちら側に来るのは初めてだ。
争いの後、あの灯台を境に国は2つに割れ、海もあそこでまっぷたつに割れている。
というファンタジー小説を今度書こう。とにかく異国の地へやってきた感じ。
 
足元に貝のかけらがキラキラしている。
貝よりも丸くなったガラスが好きなのだが、落ちて無いのでとりあえず貝を拾う。
しかし景色が気になって下を見れない。空を見たり水平線を見たり下を見たり、忙しい。
見慣れないものばかりで目と脳がキョロキョロしている。
耳は早くに慣れた。私は目からの情報が1番創作に役立っている気がした。
音が聞こえなくても曲は作れるけど、目が見えなくなったら作れない気がする。
見えなくなったら、今まで見えなかった何かが見えたりするのだろうか。それならいいけど。
この思考から推測するに、私は何かを作りたいらしい。傷心旅行に来てまで。
スタジオに入って曲を作っていた方が傷は早く癒えた気がするがもう遅い。
海を楽しもう。

私の知っている海は3つしかない。
小さい頃家族で行った千葉の海。
川崎の工業地帯の海。
そしてこの江の島の海。
3つで十分だ。今回は逆サイドだし。

16時半を過ぎると、世界の色がどんどん変わっていった。
空は青からオレンジへ、そしてピンク→ムラサキ→藍色へ。
それが濡れた砂浜に映っているので、倍の色が次々流れていった。
私はiPhoneのシャッターを切りまくった。
夕日の手前にいる釣り人は影絵のようになり、みんなに写真を撮られていたが、
本人たちはまったく気づいていない。
風景の一部としてしか人間が機能しないのはとても面白い。
サーファーもカップルも、美しい夕暮れの添え物だ。

17時半をまわると、急に寒くなってきた。
ふと辺りを見回すと、サーファーもビーチバレーもイヌも、誰もいなくなっていた。
ホラーか。帰ろう。
凍える指をハクキンカイロで温めながら来た道を戻る。
いやそれではつまらないので来てない道を戻る。
そして住宅地で道に迷う。
写真の撮り過ぎでiPhoneは終わっていた。
マップなど見なくても駅まで行けるさ。
自信過剰に歩いていたら、行き止まりに2度も出くわし、
道だと思っていたのは民家の敷地内だった。
入り組んだ道が多く、方向が分からなくなる。そして暗い。
もちろんバッテリーは持って来ていた。
ようやくiPhoneが赤から緑になり地図を開くと、とんでもない場所にポツンと私がいた。
目的の駅は通りすぎていた。仕方ない、次の駅まで歩こう。

この辺に住んでいるバンドメンバーのカオルくんに、美しい海辺の写真を送りつける。
そして迷子アピールをしてみると、私が次の駅にたどり着くのと同じくらいに、
自転車でやって来てくれた。
駅に自転車で現れるとか、中学生みたいでとてもいい。
髪にはネグセがついていた。近所感。夜勤明けで起きたばかりらしい。申し訳ない。
1杯飲みたかったが、うちの駅より何もなかった。
しかしさすが地元の民。美味しいラーメン居酒屋に連れて行ってくれた。
カウンターとテーブル席が少し。
お酒とおつまみもいろいろあって、ワイン片手にラーメンの人、
子連れで夜ごはんの人などで賑わっていた。
醤油煮干しラーメンはアツアツで美味しかった。
藤澤名物のエールビールを注文した。ぶどうが入っているらしくフルーティーだった。
チャーシューはカオルくんに食べてもらう。
熱いラーメンと冷たいビール。
暗闇で迷子のあとの友だち。
ホッとしまくりだ。
バンドの音源をカセットで出そうとか、海辺を歩くミュージックビデオを作ろうとか、
他愛ない未来の話をする。
コップ2杯のビールとラーメンでサクッと店を出る。
カオルくんは自転車をその場に置いて、駅まで一緒に歩いてくれた。
彼はいつも当たり前のように紳士だ。
ちょっとした振る舞いに育ちの良さを感じる。
こういう人の家族にはぜひ会ってみたいと思う。
送ってくれたカオルくんに挨拶をし、PASMOをピッとする。
コートのポケットには、何故かカオルくんがくれたミックスナッツが入っていた。

おなじみの駅名が見え出した頃には、ブロークンハートはブレイクザハートになっていた。

正しい休日の過ごし方をしたと思う。

私は今日、海を見てきた。